「純子さんの人生そのものを見せてもらったような気持ちになりました。」

個展を見にきてくれた方からそう言われるまで、そんなこと思いもよりませんでした。個展は、自分の人生がそのまま浮かび上がってしまうものだなんて。

最初は驚いたけれど、5日間のあいだに何人もの人からそう言われて、ようやくその意味がじわじわと胸に沁みていきました。

わたしは、描いてきた絵に言葉を添えて、そこに並べただけのつもりでした。テーマを決めて、自分の中から溢れたものを、自分の思うように展示して見てもらうことが、ただただ嬉しくて仕方なかった。

けれど、出来上がった空間はどうやら、「作品の展示」というより、わたしの人生をたどるような場所になっていたらしい。

絵だけでも、文章だけでも伝わりきらない何かが、その両方の相乗効果で莫大な情報として押し寄せてくる。冊子まで含めるとそれはまるで長編映画を一本見終えたような満足感に包まれました。それもそのはず、この個展は純子さんの半生を追体験出来る場だったのですから。

「個展で自分の人生が展示されてしまう」なんて、もし知っていたら、怖気付いてしまっていたかもしれません。知らなかったから、できたのかなあ?

いづれにせよ、自分の人生がそのまま滲み出てしまうような場所を、自分自身が愛おしいと思えたことが、とても嬉しかったです。

この記事ではそんな5日間のことを、個展に来てくれた人たちの言葉を交えながら振り返ってみようと思います。

最も個人的なことが、最も普遍的なことである

これは、心理学者のカール・ロジャースが語ったとされるフレーズです。

個展の期間中、来場者の表情や言葉に触れるたび、「人は、他人の物語の中に「自分」を見つけるのだなぁ」と、何度も思い知らされました。

わたしが描いたのは、特別でも劇的でもない、ごく個人的な感情や記憶。それなのに、作品の前で佇む人たちの中には、絵とキャプションを見ただけで思わず涙ぐむ人もいれば、静かに頷きながら、ゆっくり絵の前から離れていく人もいました。

みなさん、絵だけでなくキャプションもじくり読んでくれていました。

私の絵や言葉に、ご自身の記憶を重ねてくれていることが伝わって、その姿を見ている私自身が、一番癒されていたかもしれません。

「個展をやってみたい」というより、この一連の物語を伝えるのにふさわしい形が。個展だったんだな・・・と思ったよ。 そしてそれを、自分だけで内包するのではなく、自分以外の人たちと共有することが、じゅんぴーの昇華になるのだなとも思った。不思議だね。 じゅんぴーのごく個人的な物語のはずなのに、それは誰かの勇気や癒しや慰めや赦しになる。 これが響き合うってことなんだなと、しみじみ感じてる。

ある人がFacebookのコメントで、寄せてくれた感想です。人を理解する解像度が細かく、そして人のことを受け取る器が深い人だなと、常日頃から感じていました。彼女の人生がそうさせているのだと考えると、どんな経験にもやはり意味があるのだと思えます。

自分が自分の奥深いところまで降りて行き、それを表現すれば、同じくらい深いところにいる人と、大きな意識を通して繋がれる。」

じゅんぴーがやっているのは、そういうことだと思うよ、と、深層の意識を扱う人から言ってもらえたことを、思い出しました。

「少女の気持ち」の作品とキャプションを読んで、涙があふれてきました。 ずっと自分が我慢していい そうすれば、まわりがいい状態でいられる 自分だけがそうなんじゃないかと 思いながら生きてきました。でも、この作品を見て、自分と同じように 我慢している人がいることを知りました。そして自然とこころの中で呟いている自分がいました 。
「いままでずっと、誰にも言えず我慢してきたんだね  そっか、そっか、つらかったんだね  がんばってきたんだね」 その呟きが作品の少女にも、そして、自分自身にも言っていることに気づいたとき、涙が溢れました。

彼が「まさか自分がこの絵で泣くとは思わなかった」と言ったその声に、ずっと押し込めてきた箱の蓋が、ふっと開いたような、そんな柔らかさを感じました。

「少女の気持ち」は、自分の弱さを見せずに生きてきた女性に共感されることが多かった絵ですが、上の感想を伝えてくれたのは、男性でした。大人になると、男性の方が自分の弱さを内側に隠さざるをえないことが多いはず。そんな人の心に絵で寄り添えたことが、嬉しかった。

絵を見たり、キャプションを読んでいると、胸がキュッとなる感じがします。

こういった感想下さる方も、少なくありませんでした。

実はわたし自身、自分の描いた絵を見た時に、自分の中の胸が詰まるような感覚がありました。その感覚をキャプションにすることで、ただあるがままに置いておきたかったのだと思います。

わたしの描いた“とても個人的な物語”を通して、誰かの痛みや、誰かの祈りと重なり合う。その瞬間の感情を、どう表現したらいいんだろう?

今回の個展の5日間、わたしは来場してくださった一人ひとりと、心の中でハグをしていたような気持ちでいました。

「そうか、わたし、個展でこれがやりたかったんだ」

自分の中の大事な気持ちに、個展をやってはじめて、気づくことができました。

表現は、描いた人のものではなく、受け取った人の中で再びはじまる。

自分が意図して表現したことを、どう受け取るかは相手次第。

そのことを頭では理解していたし、どちらかというと、もしネガティブな反応があったとしても傷つかないようにするための“防御の言葉”として、自分に言い聞かせていたところもあります。

だけど実際にはネガティブどころか、自分の意図をはるかに超えた読み取りをしてもらえたり、本人ですら気づいていなかった作品の可能性を、来場者のほうが見つけてくれることすらありました。

表現は、描いた人のものではなく、受け取った人の中で再びはじまる。

自分の表現を通して、誰かの中で新しく始まる物語を見せてもらえたこと。そんな予想外の「再生」が、今回の個展でいちばんの驚きであり、いちばんの贈り物だったと思います。

この小さな空間で、一つの旅をしてきたような気分です。

一通り絵を見終えた様子だったお客様に「いかがでしたか?」と声をかけると、そんなふうに答えてくれました。

展示を準備しているとき、わたしは“旅”をつくるつもりなんてありませんでした。ただ、自分の記憶や痛みや再生のプロセスを、できるかぎり詳細に、丁寧に並べたつもりでした。

だけど、絵の前に立った人たちは、それぞれの内側へと静かに降りていき、自分自身の物語へ旅をしていのかもしれません。

純子さんのアートは、まさに筆のタッチで画面を埋めていく抽象画。でも、そのアートたちの中に私は「人」を見つけた。よくぼーっと壁を眺めていたら「あ、人がいるみたい」っていうアレ。純子さんのアートは、いつも抽象画を見る時の感覚と何か違うなーっと思ってて。単なる「癒し」ではなく、なぜか心臓がどきどきしてて、頭が熱くなったり。共に生きていた人のことを思ってタッチしていくアートには、「人が存在していた」というエネルギーがこもるのかなぁ。

「絵の中に人が見えるんです、ここと、ここと…」そう指さす場所を見てみると、確かに人のようにも見える。面白いなと思ったけど、よく考えたら「存在」としての人というのはすごく意識していたかもしれません。

自分に見えていなかったものも、見てくれる人のフィルターを通せば見えてくる。それは、自分の絵なのに、誰かが隠した秘密を見つける、みたいな。少し、心が浮き上がるような体験でした。

「わたしの絵って、わたしが思っている以上に自由に生きているんだな」

そう、思えました。作者がどんな意図を持って描いたかよりも、受け取った人がどんな世界をそこに見つけるか。その“自由さ”を許すことって、見てくれる人も、そして自分自身も心から信頼する行為なんだろうな。そんなことを、何度も教えられました。

ネガティブな反応が怖くて縮こまっていた自分を、見に来てくれた人たちが解放してくれたような気がしています。

「この人生を生きてきてよかった」

わたしは今回の個展を通してずっと、そう感じていました。「個展をやってよかった」というよりも、より手触りのある実感として。

この感覚は個展の初日から感じていたけれど、日を追うごとに、来てくれた方からご感想をいただくたびに、強くなっていきました。

頂いた感想の中でも、「ゆるし」という言葉が特に多かったことも、そう感じるようになった理由の一つです。

普段は蓋をしてしまう様々な感情が全て許されるような、母性的でも父性的でもない、透明で制限のない許しの場が、絵に囲まれていました。

癒しとはゆるしなのだなぁと、自分の中にひとつまた許可が出たような気持ちです。

私の中に降り積もっていくのは、彼女の世界の捉え方、その繊細さときらめきと、ゆるしに満ちた感性でした…

私自身が明確に「ゆるし」を意識して描いたわけではないので、見た方が、それぞれに「ゆるし」として受け取ってくれたのだと思います。

それにしても、自分の絵でひとはなぜ「ゆるし」を感じるのか、自分ではわからずにいました。そんな中、こんな感想をくれた方がいらっしゃいました。

言葉で表現できる純ピーが凄いと思っていたけど、絵で解放する純ピーはもっと凄いね。

このご感想を頂いた時、「ゆるし」と「解放」は、同じような意味なのかもしれない。そう思い、ふと記憶が蘇った言葉があります。

(絵をみていると)じゅんぴーに「訪れているものを開く勇気」をすごく感じる。たとえば自分の中に「ぽん」て1滴、光の球が訪れて、それを、「まあいいや」って見逃すのではなく、「自分のところに訪れてるってことは…」って、それを見ていく力と勇気。じゅんぴーは自分に訪れたものを、何か特別なこととせず、閉じたものとせず、当たり前のこととして扱うよね。

落ちてきた雨粒を両掌で受け止めるように、わたしはただ「訪れたもの」を丁寧に扱ってきただけなのかもしれません。

痛みが来れば痛みを、怒りが湧けば怒りを、言いようもなく胸が締めつけられれば、その感覚を、そのままに。

「こう描こう」と形を決めてから描くことはほとんどありません。訪れた感覚のほうを優先して、そのとき自分の中に“開いてくるもの”を、そのままキャンバスに置いてきました。

もしかしたらその“姿勢”そのものが、見てくれた人が抱いているものをゆるし、その人に訪れている感情を解放していたのかもしれません。

自分の感情を押し込めず、悲しみも、弱さも、あたたかさも、どれもそのままにしておくという態度。結論も教訓も解決も何もせず、ただ受け止めるというあり方。

それは特別な技術ではなく、わたし自身が母や、大切な人たちから受け取ってきた“ゆるされていた感覚”の延長線上にあるのだと思います。わたし自身がゆるしてきた(ゆるすしかなかった)「こんな自分」が、そのまま絵に映し出されていたのだと。

意図したわけではなく、狙ったわけでもなく、ただ自分の人生に訪れたものを開き続けるしかなかった、その道のりの結果として。

もし、絵に宿ったわたしの人生の道のりが、誰かの中でゆるしとなり、解放となり、そして何よりも、誰かと響き合う記憶の交差点だったのだとしたら。

「この人生を生きてきてよかった」

そう思わずにはいられないのでした。

誰の心の中にも、きっとたくさんの絵が飾られている

個展を終えたあと、ある方が言ってくれました。

「誰の中にも、こんなふうにたくさんの絵が飾られているのかもしれない。」

ああ、本当にそうだ。

わたしが描いたのはたしかに“わたしの記憶”だったけれど、あの空間で立ち上がっていたのは、来てくれた人それぞれの記憶や物語でもありました。

日にちを重ねるにつれ、あの場がどんどん暖かくなっていったのは、きっとそのせい。私の人生に、来てくれた人の人生が重ねられていった、そんな感覚があります。

個展は “見てもらう場所” である以前に、誰かの奥にしまわれていた風景が、そっと光に触れる場所でもある。

わたしはきっと、これからも、自分に訪れるものを迎え入れながら、その道のりで触れた記憶や感情を、キャンバスの上に置いていきたいと思います。ときにそれが、どうしようもなく胸を締め付けるものであったとしても。

誰かの心に飾られている絵と、
いつかどこかでやわらかく響き合うことを願って。

個展「再生」特設ページ


じゅんP

メーカー勤務を経て、医学や身体への興味から大学に再入学。卒業後は10年間細胞診断業務に携わる。現在はヒューマンデザインのリーディングや、感性に寄り添うセッションを行う。また記憶や感性を呼び覚ますオーダーメードアートも制作する。

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